佐渡の味噌づくりは、江戸時代の相川金銀山(佐渡金山)開発による人口増加によって発展したといわれ、北海道への味噌の運搬が始まり、島内での味噌醸造が増えた。昔は島内に100軒以上の麹屋があり、島内には今でも味噌屋町の町名が残っている。“佐渡味噌”は、麹の割合が多い長期熟成タイプの赤色中辛味噌。米麹に特徴があり、粒がほとんどない麹を使用し、大豆粒も米粒もすりつぶして作るこし味噌である。発酵した深い香りと、塩なれしたコクのある味わいが人気だ。合わせ味噌としても使いやすく、信州味噌と合わせるといっそう味わいが出るとされている。
佐渡両津にある「塚本こうじ屋」は、佐渡の農家が家庭で味噌を作る為の糀(こうじ)を代々作り続けてきた、200年以上の歴史を持つ老舗の麹屋。三日三晩手塩にかけて育てた糀は出荷時にふんわりと香ります。70年以上前に塚本こうじ屋では、麹だけでは商売が難しくなったため、船小屋を味噌蔵に改装し、味噌づくりを始め、味噌蔵には木桶が並んでいます。佐渡味噌の特徴は、味噌玉をつくらず、麹歩合が高くなっていて、塚本こうじ屋では、大豆10に対して米麹を17入れる配合で味噌を製造しています。また、味噌と佐渡の旬の食材を使った旬彩調理味噌を作っていて、春はフキや山椒、夏はシソ、冬はゆず、通年はネギなどを販売しています。
佐渡味噌は、新潟県の佐渡島で作られる特産品です。新潟県本土の越後味噌とは異なり、独自の特徴を持っています。
この味噌は、赤色系で辛口の米味噌に分類され、長期間の熟成が特徴です。大豆と米の割合は60〜80%で、塩分濃度は13〜14%になります。発酵によって、大豆由来のうま味と米由来の甘味や酸味が調和し、飽きがこない独特の味わいが生まれます。
佐渡島では、古くから大豆や米の栽培が行われており、味噌づくりに必要な桶や樽の材木、竹などの素材も豊富に手に入れることができました。そのため、明治時代には日本海航路の寄港地として北海道への味噌の出荷が盛んに行われ、特に湿度の高い南部の羽茂村では、味噌の生産が急速に発展しました。
佐渡味噌の歴史は、佐渡金山が発見されて相川町の人口が急増した江戸時代以降に始まります。江戸時代には相川で「味噌屋町」という町名が存在し、ここで味噌作りが行われていました。一方で、佐渡からの味噌の搬出入に課せられる運上の記録はなく、島外への出荷は行われていませんでした。
明治時代末期から明治時代初期にかけて、佐渡島から北海道に移住する人々が増えました。彼らは佐渡から味噌を取り寄せて食べるようになり、日本海航路の寄港地であった佐渡は、北海道から石炭や木材を運んだ帰りの船が安い運賃で味噌などを北海道へ運ぶことができる利点がありました。
島内の味噌産業は付加価値が高いとして発展し、明治末期には製造業者が50社以上にも達しました。しかし、品質の低下が問題となり、過当競争によって佐渡味噌は劣勢に陥りました。そこで、1909年に佐渡味噌協同組合が設立され、品質向上や原料確保の活動が行われるようになりました。
日本からの移住者の増加に伴い、佐渡味噌の販路も北海道だけでなく樺太や千島列島、沿海州などに広がりました。さらに、1923年の関東大震災の救援物資となったことをきっかけに、関東地方や関西地方にも出荷されるようになりました。
1940年には味噌の配給統制令が施行され、生産額が減少しましたが、1950年に統制令が解除されると再び販路が拡大しました。1971年には2万トン以上が生産され、佐渡は新潟県の味噌生産量の約半分を担うまでになりました。